top of page
Harmonic.Resonance.Healing.Art

クリエイティビティについて考える。

クリエイティビティってすごく繊細だと思います。



クリエイティビティが大切だと、いつでもどこでも、それはそれは長い事叫ばれていますが、クリエイティブであることって、実は生きることそのものの様な氣がします。


一番分かりやすく身近なクリエイションは自然の中にありますよね。タネから芽が出て、それが木に育っていくとか、春になって子鹿が生まれるとか。。。

すごく当たり前の事に見えますが、すごいと思いませんか。何もないところから命が生まれているんですね。クリエイティビティのエネルギーの源は第2チャクラ(子宮の場所)だと言うのがうなずけます。女性が赤ちゃんを身籠って、赤ちゃんを産むというミラクルエネルギーがクリエイションの根本なのだと思います。

クリエイティビティって、つまりですから、見えないものから見えるものを産む作業ですよね。まだ誰も考えたこともやったこともない事に挑戦したり、もやっとして形のわからないものを絵や彫刻、音楽を通して表現したり、コミュニティを構成したり。。。新しい道を切り開いていく作業です。誰の真似もできない、失敗は自分の責任、出来るかどうか信ずるは己が心のみ。おお大変。おおお、大変な事です。それを当たり前に、ごく自然の事としてやってのけているお母さん方には本当に頭が下がります。ゼロから1を産んでいる最たる人たちはお母さん達です。当たり前すぎで忘れちゃうんですけど、本当にすごいと思います。

無から何かを産むのがクリエイティビティだとすると、それって他の人や、世の中一般と違うって言う事なんですよね。今まで誰もやったことのないことや、みんなが目も向けなかった事に興味を持って、何か産むんですよね。もちろん、今あるものや伝統を受け継ぎながら何か新しい事を表現していくと言うのもクリエイティビティだと思いますので、いつでも100%、ゼロから1を産むわけではないかもしれませんが、それでもやっぱり、新しい事を生み出す作業には変わりありません。産みの苦しみと言いますから、新しい事を生み出すのは、何が対象であったとしても、うんうんと唸って、悩んでそれでやっと新しいものが生まれるのだと思います。いっぱい苦しんだ分、新しいものが出来た時の喜びもひとしおですね。



私が小さい頃は、みんなと違う事をすると怒られて、なんなら体罰もありな時代でした。私のエネルギーは(私自身の理解している範囲では)かなり暴れん坊で、ほっとくと普通からはみ出しまくるので、結構ビシバシと正されました笑。小学生くらいの時には、もう怒られるの嫌ですから、先生の言う事を聞いて、はみ出さない、いい子である為の努力をしまくっていたと、今振り返って思います。それでもはみ出すんで怒られるんですけどね笑。その頃に、私のクリエイティビティも一緒に封印されました。だって人と違うことするのは間違ってる、って体が認識していますからね、しょうがないですね。


そうして大人になって、若い頃の私は、クリエイティブな人たちを嫌いっていました。「なんで私がこんなに我慢しているのに、あなたはそんなに自由に言いたいこと言って、やりたいことやって周りをかき乱すの?」って。同時に心から憧れていました。「いいな、自由でいいな、なんであんなに楽しそうなんだろう?なんで周りを氣にしないで好きな事出来るんだろう?」って。そうして、妬みというか、ジェラシーが心の中に沢山生まれました。

これ、私だけじゃないと思うんです。日本の集団文化の中で生きていくには、どうしても周りに合わせなきゃいけないし、合わせる事に美徳があります。ネットでニュースを見ていても、例えば芸能人がすごい事をすると絶賛されますが、何か道徳的に間違っていたりすると、大バッシングですよね。これでもか、と苦情、講義の声が上がると思います。限られた土地で、みんなが協力して生きている日本で、和を乱す事が罪となるのは、とてもうなずける話です。ただこの考え方は諸刃の刃だな、って思うんです。人と違う事をするのがクリエイティブなのに、人と違うことすると罰されるって、困りますよね。相当志が強くないと自由な表現が難しい、大変厳しい環境だと思います。だからこそ、その環境の中でも負けじと自分を表現されている方の作品には、世界が目を見張るものがあるのかもしれません。



さて、ジェラシー。

ジェラシーのエネルギーは厄介です。私はこのエネルギーに大分苦労してきましたし、この先も、きっとまた何度も向き合う事になるのではないかと思っています。今の私の理解としては、ジェラシーを感じている時って、自分の中に表現されていない部分があって、その私が、「出たいよー外に出たいよー!自由になりたいよー!」って叫び声を上げているんだと思うんです。でも私の中の警察官が言うんですよ、「出るんじゃない、和を乱す事は罪だ。」って。そして私の中の保護者がいうんです、「外に出たらバッシングされるかもしれないよ?傷つくかもしれないよ?外は危険だよ?だからいいんだよ、出なくて。今のままで。」って。そして出たいエネルギーと出るなっていうエネルギーに挟まれ、その行き場のないエネルギーがジェラシーという刃となって、目の前にいる表現者に向かうのではないかと思います。


いやはや困ったもんです。自作自演なんですよね。ヒーリングやカウンセリングを受けまくって、それが自作自演って頭で分かっても、私はジェラシーを感じている時、血が沸立つくらいぐおーーっと、うがーーーっとなります。それでもって、冷静さをなんとか保ちならがら、ジェラシーちゃんと対話をするんですね。


この気持ちを見つめていくと、やっぱりその一番奥で出たがっている自分を自由にする事が、一番の薬ではないかと思います。出たいなら出ればいいんじゃないかな、って。だから、ジェラシーを感じた時は、絵を描いたり歌を歌ったり、なんでもいいので、自由になりたい自分に表現の場を提供する事を、私はお薦めしたいです。


そして、少しずつ自分の中の警察官にその表現を守ってもらい、保護者にサポートしてもらえる様な関係になっていくのが私の夢です。時々心が折れそうになりますが、少しずつ自分を表現する事に対する恐怖が減ってきた様に思いますし、歌を作ったり、絵を描いたり、小さなクリエイティビティに喜びを感じる様になりました。普段あまり口にしない事をこのブログで書いていることも、私にとっては自己表現の練習であり、ヒーリングである様に感じます。


そうしているうちに、今ではクリエイターの方に対しての嫌悪感もすっかり消え失せ、今はただただ尊敬するばかりです。すごいなー、強いなーって。そして、そういう人たちと一緒に何か作ってけたら楽しそうだなー、なんてさらに大きな野望を抱いているほどです。人って変わるんもんです。



タネが芽を出す時、きっとその芽も恐怖を感じるんだと思うんです。真っ暗なところから、いきなり光の中に飛び出していくんですから、それはそれは大きな環境の変化です。食べられちゃうかもしれないし、踏み潰されちゃうかもれないので、リスクも大です。それでも出たいが勝つんでしょうね。


私達人間も自然の一部ですから、自由に表現したいという気持ちはごくすごく自然な事だと思います。この出たい気持ちに素直でありたいものです。もし表現を恐れている様でしたら、もし良かったらですが、私と一緒にこの恐れを乗り越えていってほしいです。私たちには変わっていく、という選択肢があります。



最後に、若い頃にこっそりと・公に、エネルギーの刃を向けたクリエイターの皆さんにこの場をもって謝罪します。今は、皆さんの事を心から尊敬しています。



どうかより皆が自由な表現を楽しみ、それを認め合える世界となっていきます様に。



最後まで読んでいただいてありがとうございます。

愛を込めて。

きょうこ


Photo credit: Jeremy Bishop

39 views
bottom of page