今日はかなり抽象的ですが、良かったら最後までお付き合いください。
ワタシ、私、わたし。 「私」って毎日使いますけど、一体それは誰でしょうか。 外から見える「私」、心の中の「私」、自分を眺める「私」、体、心、エネルギー、思考…。 実態のある「私」と実態のない「私」、そしてその狭間の「私」。 いろいろな「私」がいますね。 「私」は、宇宙の一部であるとすると、それはすべてを包含しますので、 ときには、光であり、影となります。 良いも悪いも、全ての可能性を秘めています。 「私」はある時は私で、ある時は貴方です。 はたまたある時は彼女・彼氏であり、ある時はお前だったりあいつだったりします。 同じものを指しているけど、視点によって、見え方や名前が変わるんですね。 そして今も10年前も20年後も、私は私のことを「私」と呼びます。 めっちゃ凹んでいる時も、天に登る様な気持ちの時も「私」。 実態は変わっていても、何故か同じ「私」。 変わりゆくものについた不思議な名前です。 * 何を見て何を思うか、という事は、絶対的に個人の自由/権利/責任なので、
人の数だけ、命の数だけ視点が存在します。 そして、そういう理由で、「私」の視点は「私」に属します。 変わりゆくものであると同時に、絶対的な中心が「私」です。 * それぞれがそれぞれの「私」の視点から見てるだけなので、
実は何を思っても思われても良いんです。
(その伝え方には研究の余地があるかと思います。) 「私」の視点がたまたま一般的な視点とぶつかるな、という時、肩身狭い時ってありますよね。
それでも「私」には「私」である自由があります。 「私」の視点を持つという事は、自分の中の正しさ/美しさを磨き続け、
誰がなんと言おうと、それに責任を持つ事だと思います。
これは「私」が変わり者であればあるほど、大変な事です。 物凄く厳しい事ですね。 厳しいんですけど「私」を知って、磨いて、それに正直でいればいるほど、 他人からの承認が必要なくなるので、 意見の違う人の在り方を尊重できると思うんです。 「私」が立つと「貴方/他の私」を立てられるんです。 かっこいいですよね。 ここまでは私の中の“哲学者さん”の理想のお話しです。 * 怖いし、よくわかんなーい。 別に楽しければ良くない? ああ、社会の流れそっちに行くのですね、じゃあついってちゃおうかな! そんな事どうでも良いから好き勝手いこうぜ! あ、あそこに良い男がいる!! これが日常の私です。 私の中の“奔放さん”です。 「私」の中に哲学者さんと奔放さんが同居してるんですよ。 ギャップに悩まされる日々ですw 色んな私がいて良いんですけど、 ただ「私」の視点がぶれると大体失敗するか面倒くさい事になるんですよね。 面倒くさくなってから氣がついて、あー、またやったな、と反省します。 負けず嫌いの私は、よし、次はやり方を変えてみよう、
って立ち上がるんですけども笑 七転び八起きです。最後起きてればこっちのもんです。 なんだか不恰好ですけど、「私」は変わっていくものなので、それで良いと思うんです。 「私」を磨いていくというか、削いでいくというか。。。 「私ing」です。
* “哲学者さん”はスマートに格好良く生きる事を見せてくれますし、
色んな事どうでも良い“奔放さん”はフワッとしていて自由を生きています。
この二人はよく喧嘩します。
他にもいろんな「私」がいますし、これからも発見がありそうです。 だからもう最近はスマートじゃないかもだけど、
「私」になり続けていけばいっか、と思う様にしています。
氣楽です、そして案外少しずつ出来る様になっている氣がします。
少なくとも前よりも「私」を自覚している量が増えたと思います。
*
終わりに。
太極拳の先生がある時「人生は最大のアートだ」とおっしゃっていました。
つまり多分そういう事です。
最後の一息まで「私ing」したいですね。
そしたら「私」は魂に戻るんでしょうか。
この答えは、最後の時までとっておこうと思います。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
愛を込めて
きょうこ
Photo credit: Dave spangenburg